証とは何か。

みなさまお疲れ様です。

福本です。

 

証とは何か。

今回は証、あかしを考えたいと思います。

と言いますのも、本ホームページも様変わりをし、映像のサンプルも視聴可能となりました。

しかしながら、自分が更新しているわけですが、映像を言葉にしてみなさまに価値をお伝えすることが非常に困難でして、

一生懸命に言葉にしているつもりなのですけども、なかなかに難しい。

それならば、言葉を学んでいけばいいと思いましたし、ここで公開して興味ある方にも知ってほしいという想いで今回のはこびとなりました。

ご興味ある方はお付き合いください。

 

最初に「証」自体の意味は?ということで

ネット辞書ですと、

・《「灯(あかし)」と同語源》ある事柄が確かであるよりどころを明らかにすること。証明。証拠。「身の証を立てる」

とか、

・確かなよりどころを明らかにすること

だとか。

なんとなくわかるのですが、ちょっとピンとこない感じですね。

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「証をのこす」という言葉は色々な場面でみたり、きいたりすると思います。

それ以外のコロケーションを調べてみました。

下記がざっくりの一覧です。

証か啖ふに  証をうるや  証をする  証をきく  証は古くより年内立春などいふ  証に追証と重ってきたじゃありませんか  証ぞと云って  証を与えて  証を得んと欲せば  証悟さして呉れる  証なれば誤字等も計り  証とした  証に愚見を一つのべてみます  証として映った  証とみとめて  証約を取ってありますから  証を立ててやりたい  証もとおらなくなる  証として見るべき  証がないから其の儘打捨ておかれた  証は無いというのを公平とする  証も立てて  証とするに足らぬ  証になるだけで  証と書いた  証ばかりに黒い袈裟をつけているに過ぎない  証を見んとならば  証となった  証なんださうだ  証を見せて  証があるか  証なればなり  証にもなる  証とするが  証を立てられてみちゃあ  証として黒印ある  証を示さぬ  証に貰っていた  証に贈ってきた  証へ達するには  証とのみ相応する  証入して  証を我々に示した  証もある  証するに十分な有名な金持ちの船客が片端しから死んでいる  証として仮りに持帰った  証を以て告口せずに置かば  証となすに足る  証を見せられる  証かしてくれる  証を見せた  証の霜とも思われて  証に立てて  証の見える  証の簪だけ得た  証を将て世に吹聴せんとにはあらず  証の意識を描く  証となすには足らざる  証に立つ  証ともなれば  証だけにおいた  証をたてなければなりません  証があり  証を引いて  証にならぬから  証を挙げれば  証を立てますわ  証をもって来ている  証を受取ると  証なんかで遊んでもらっちゃあ  証として与えられた  証とし  証の事実から把握せられる  証の事実といえば  証せらるるなりという  証をなせり  証示されない  証示するに足る  証示している  証を示す  証たる青い頬と凹んだ  証示せんとするにある  証示するように思われる  証示せんと努めた  証示する傾向がある  証示するにある  証にちかづく  証とに関して区分されている  証とがともに存在する  証のごとしといわれ  証は存しない  証もともになくなる  証を顕わす  証が何かなければならないがと思っていたら  証と見るべき  証ともならない  証が入っている

 

証を立てるだとか、示すは見聞きしたことがありますね。

自分としては証は「しるし」なのかなぁと感じました。

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あかし、しるし。

それが確かであるというしるし

→あかし

ですかね。

 

しるし、そう考えてみるとわかりやすくなりましたかねぇ。

あなたのしるし。

芸術家だったら作品ですかね。

働いているみなさんでしたら、その業績ですか。

家族がいる人は家族もあなたのしるしでしょう。

 

仕事があり、家族があり、趣味があり・・・

あなたのしるしはたくさん、様々ですね。

それを集めてひとつのあかしにする。

それが映像商品「証」でしょうか。

 

なんだかうまく伝えられた気がしますので、

今回はここまで。

ありがとうございました。

 

252

 

変化と進化、そして退化

諸行無常・・・物事、万物は絶えず変化をし続ける

一瞬、一分、一時間ともなく変化している。

それは自然の法則と思っております。

 

変化することと進化すること、退化することは別のこと。

変化そのものはどうしようもないことで、

どちらに向かうかの方向、舵取りができるだけなのでしょうか。

 

 

(前にも記載したかもしれませんが)

 

どこに向かうかは自由ですかね。

自由、自分に由る、自分を由りどころにする。

自己を拠り所として向かう先、方向を決める。

 

そうした時、あるべき自己と向かい合う。

そうやって拠り所とする自己を見出す。

言葉にするのは簡単なのですけどね。

 

どこかで自分の思う自分とのズレを感じるときはありませんか。

俗にいう後悔というカタチで。

全ては変化をし続けるということは自分自身でも気づかないうちにズレが生じるということですかね。

つどつど見つめなおす。時間は在る。

 

結局、自分の幸せは自分にしかわからない。

当たり前なのでしょうけども、当たり前と思われるものがいかに困難であるか。

いかに困難であるか。

感じておる次第です。

 

252

映像商品「証」について ー映像をのこすということ・後編ー

前回の続き

「映像をのこすということ」は

「映像は情報量が多い」から。

これはひとつの切り口として、側面としてですけども。

 

情報量が多いとは何か。

ひとつは音が含まれる、資格情報だけでなく聴覚情報も含まれることでしょうか。

テレビをなんとなくつけている方がいらっしゃると思いますが、

それは、誰かの声を聞くことで孤独を紛らわし、安心を得ているというものもあると思います。

音がある、それは心のバランスをとることでもあるのではないでしょうか。

 

連続性による動きを感じられること。

例えば、走っている人を撮影した時に、写真だとその一瞬ですが、映像ですと走り方のフォームや様子がわかりますよね。

疲れているのか、慌てているのか。それが情報量の差なのだと思います。

写真は瞬間を切り取るもので、映像は時間を切り取るものと思っております。

どちらが良いとか悪いとかではなく、そういった特性、特徴があるものだと思っていただければいいと思います。

 

そういった特製のあるメディアなものですから、「のこす」ということに関しても一長一短あると理解していただきたいです。

写真があるからいい、映像があるからいい、というものでもなくて、

「こういう理由でのこす」というところに対してのアプローチとして選択できるように。

 

話がどんどんずれていっておりますね。すみません。

このお話はまた、テーマをしっかり絞ってお伝えしていきたいと思います。

見切り発車すぎました。

 

映像にのこすことはその時間をのこすこと。

写真の瞬間を連続した時間に構築することでストーリーが感じられてきませんか?

前回の映像をもう一度見ていただけると、見え方が変わりませんか?

幼い頃から壮年期を経て行くことでその人の人生、生き様を感じませんか?

4分位の映像に何十年の人生がぎゅっと凝縮されていることが感じられましたか?

そこに確かな人生を感じましたか?

それが「証」です。

 

・・・熱くなりすぎましたね。

 

しかしながら、そうやって人を理解し、これからを生きて行くことは

これからもっと大切になるのではないでしょうか。

おじいちゃん、おばあちゃんのこと。

お父さんお母さんのこと。

みなさんが赤ちゃんから今に至っていること。

映像はそれをありありと理解させてくれます。

 

うまくまとめることは叶いませんでしたが、

そうした想いを持って映像商品「証」を制作させていただきます。

ご興味ある方はご連絡ください。

ありがとうございました。

福本

 

251

映像商品「証」について ー 映像をのこすということ・前編 ー

映像商品「証」は

あなたにとって何の映像に見えますか?

 

単なる写真のスライドショーでしょうか?

確かにそうですね。

 

本日お伝えしたいことは、映像として「のこす」ということとは、どういうことなのか?

ということを、自分なりにお伝えしていきたいと思います。

一度では全てお伝えできないと思いますので、何度かに分けていければとも思っています。

 

まず、あなたは(私も)写真をお持ちですよね。自分の写った。

それを撮影した方と、あなたのご関係は?

あなたが小さな頃の写真はたいていは親御様が撮影しているのではないでしょうか?

そこからはじまって、学校の先生や、友人、先輩、職場の方、親戚など、たくさんの人があなたの写真を撮影し、

あなたとの写真を撮影しました。

撮影することは、当たり前ですが撮る人と撮られる人がいるということです。

 

映像、動画はーーー写真、静止画が連続したもの。連続、つまり時間を扱えるものですよね。

それだけに歴史は写真より浅く、撮影する機器も写真ほど手軽なものではありませんでした。

 

現在はスマートフォンで写真も動画も簡単に撮影できるようになっていますね。

まだまだSNSなどでは写真での共有や保存が主流かもしれませんが、動画も増えてきております。

みなさんは商品・サービスの広告などでは動画を目にすることが増えてきているのは感じておりますか?

Youtubeも個人で映像を発信できるサイトですが、たくさんの方が参画されていますよね。

 

なぜ、映像が増えてきているのか?

「映像は写真よりも伝えられる情報量が多いから」

もちろん他にも理由はありますよ。

 

なぜ、写真でのこしているものを映像にするのか?

その答えの一つが

「映像は写真よりも伝えられる情報量が多いから」です。

 

 

続く。

(ここまで書くのに1時間もかかったため)

 

250

感情を感じる

感情は、感じるもの。

感情はどこから生まれてくるのか。

 

感情は自身から生まれ、自身が感じるもの、だとしたら。

主体的に感じたい、感じるべき感情を選択することができるはず、なのに。

いわゆる嫌な感情、負の気持ちになるのはそれを自らが選択しているからだと。

そういうことなのですか。そういうことなのでしょう。

頭ではわかっているつもり、なのですけども、ついついやってしまう。

 

そういった時は手を合わせるのが良いですよ。

手を合わせる。

 

なむ

 

249

 

from 矮小

自分の理解を超えたものに対してどうしますか。

 

世の中、理解を超えたものばかりですね。

理解できないことをまず理解しないと、と思うのですが。

なかなか困難でして、すぐに自分の範疇に押し込もうとするか(レッテルはり)、遠くに放り出してしまいがち(なかったこと)です。

じっくりと観察し、あるがままに感じ、受け入れるようになりたいものです。

 

そもそも、理解できないものを理解しなくてはいけないのか?

そうしたことも考えますが。

理解できないものに触れた時に、心地よく感じたならば

理解した方がいいのではないかと思います。

そう思うだけなのですけども。

 

 

自分の予想通りいったものに対してどうしますか。

自分の予想通りにいかなかったものに対してどうしますか。

喜んだり、悲しんだり、楽しんだり、怒ったりしますか。

そういった自分、他人、人をみた時にどう思いますか?何か感じますか?

 

結果と感情と行動とを繰り返すことは、どうですか?

「禅」

「問答」

 

よくわからなくなってきましたが、

自分、自己を客観視することが大切なのだと感じております。

しかしながら感情が湧き上がると自己を中心に引き寄せる力が発生し、それを阻む。

主体的に客観視をする、したい、そうありたい。

そう思う次第でございます。

 

自分が何を書いているか理解できなくなりましたのでこの辺りで。

ありがとうございました。

 

248

 

手応え

手応え・・・

1.打ったり突いたりした時、手(もと)に受ける感じ。
「確かな―があった」
2.物・事・人に働きかけた結果として感ずる反応・張り合い。
「―のある仕事」

てごたえを感じていますか。

 

歩いていると目の前の景色が移り変わります。

遠くまで歩くと、「結構遠くにきたな〜」と思いますよね。

そこそこ歩いて運動の手応えを感じて、

ふとあたりを見渡すとまったく見たことのない景色が待っていること、ありますよね。

 

自分の中で、そこそこ理解した。6、7割は理解した。

そう思って周りをみた時に、その理解した量の何倍もの世界が広がっている、

え、そんなに広大なの?って感じること。

自分の理解したことが、その世界の入り口にたどり着いたくらいなの?って感じること。

 

日本が自分の中の世界の全てだったのが、その何倍もの世界が広がっていることに気づくこと。

 

伝わっていますか。

井の中の蛙・・・に近いのでしょうか。

自分は今、井戸から出てインターネットの世界へ歩いていますけども、

とてつもなく広大なこの世界に、本当に感嘆しております。

心から実感しております。

わかっているようでわかっていませんでした。

今まで感じていた手応えは、本当に広い世界へのドアをノックしているくらいであったと、

ドアを開けてみて感じております。

 

何がいいたいのかさっぱりの内容ですが、

お伝えしたいのは、自分の世界(常識)は全てではない、

自分の世界は全体の一部であるということ。

 

感じる、ということは本当に大切です。

実感、実際に感じる。

固執しない。

ようやく理解できました。

 

247

 

 

 

ホームページも少しずつに感じられると思いますが、

もっとわかりやすいものに変更していきます。

おつきあいくださいね。

until

そもそも、って時がありますね。

何かに集中してて、そういえば、とかなってると、そもそもって。

 

集中すればするほど視野は狭くなりますね。

ただ、そこに対するチカラ、密度は強い、といいますか。表現悪いですけども。

 

集中といえば、「大規模・集中」って言葉、よく聞きました。ザ・トーキョーみたいな。

今は「小規模・分散」って言葉が出て来ているのですね。

「地産地消」だったりもそこに含まれるのだと思います。

小さな経済の輪を大切にする考えなのですかね。

 

現在はインターネットの世界がありますから、現実の地産地消やその土地の経済がインターネットを経由して

経済規模や文化、資質の似た別の現実世界に多層的に重なっていくのではないでしょうか。

文章下手すぎて伝わりませんね、これじゃ。

小規模な感性の経済が、インターネットを通じて今まで現実的ではなかった距離にある、相似形の経済と自然に結びついていく。

本当に文章下手だな。

 

まぁ、ホームページを修正したり、改良したり、改悪したりと日々格闘していますが、

改めてインターネットの、電子の世界のチカラ、特性みたいなものを感じておる次第です。

 

アマゾンみたいな巨大なサービスもありますが、

もっとピンポイントな、ニッチな、現実だったらその町に住んでいても気づかないようなお店が、

インターネットだと見つかる。そして経済活動をしている。それが個人レベルにおいてもそうあったりする。

非常に面白いものであると思いますね。

 

とりとめのない話でした。

 

246

文字の力

前回から続きまして、文字について。

 

本を読むことは、その筆者との対話ですよね。

その対話は文字を通じて行われますけども、

その文字の先にいる筆者はいつの筆者なのか。

本、そして文字の先に時間と空間を超えた筆者がいて、対話をする。

時間と空間を超える、タイムマシーンですね。一方通行の。(ここでは、そういうことにしてください。)

 

つまりですよ、今文字で残しておけば未来で誰かと対話するかもしれないわけです。

誰も見ていないこのブログも、今の自分の想いを刻んでおくことで、将来誰かと対話し、

誰かの役に立つ可能性があるということですね。

 

現在は、本当にネット上のデジタルデータはほぼ全て残ると思っております。永久に。

ネットリテラシーが問われていますよね。いじめ、炎上とか色々。

 

「本」にしなくとも個人で発信できる、することが一般になる時代に、

どんな言葉を残してあげようか。

自分は困っている人の背中を押してあげることができるような、

必要以上に孤独を感じている人の心に寄り添えるような言葉を残してあげたいですね。

 

わかったこと

昔は「本(思想)」を作ることができる一部の人と皆が対話をしていた(一部と全体)

↓↓↓

今は個人個人がネットワーク上で「本(エッセイ)」を発行し、個人個人で対話をしている(個人と個人)

 

※ここでいう一部はいわゆる社会的に権力がある人(文化人、有名人とか)

※ここでいう個人はそういった一部の人たちを含めた人たち(一般人とか有名人とか関係ないフラットな個人)

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ちょっと遠くに来すぎましたのでそろそろ終わりますけども。

「文字」は見るのも書くのもいいものです。

タイトルの文字の力には届きませんでした。すみません。

 

未来に残すという意味では弊社の「証」と「祝」もこの時代だからこそのものです。

文字以上に映像の力を感じて欲しいです。

ありがとうございました。

 

246

 

 

言葉、そして文字

気になる本がありましたので本屋さんに行きました。

探しましたが結局ありませんでした。

その時、あたりを見渡してふと思いました。

「こんなにたくさんの本、一生かかっても読めないな」

当たり前のことを当たり前に思ってしまいました。

 

それと同時に、時間というものは本当に限りがあるのだと感じました。

自覚した、という方が適切かもしれません。

 

そういった意味では実感に勝るものはそうそうありませんね。

よりたくさんの実感を得られれば、もう少しよくなるのではないかと。

何がよくなるのか、たぶん自分がよくなるのではないかと。

 

時間が有限であると自覚したところでどうするのか。

何を選択して行動するのか。

実感は遠くの真理を我がことにしてくれることなのですね。

選択と集中、という言葉も聞きますが、

本当の意味でそうありたいものです。

 

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