映像商品「証」について ー映像をのこすということ・後編ー

前回の続き

「映像をのこすということ」は

「映像は情報量が多い」から。

これはひとつの切り口として、側面としてですけども。

 

情報量が多いとは何か。

ひとつは音が含まれる、資格情報だけでなく聴覚情報も含まれることでしょうか。

テレビをなんとなくつけている方がいらっしゃると思いますが、

それは、誰かの声を聞くことで孤独を紛らわし、安心を得ているというものもあると思います。

音がある、それは心のバランスをとることでもあるのではないでしょうか。

 

連続性による動きを感じられること。

例えば、走っている人を撮影した時に、写真だとその一瞬ですが、映像ですと走り方のフォームや様子がわかりますよね。

疲れているのか、慌てているのか。それが情報量の差なのだと思います。

写真は瞬間を切り取るもので、映像は時間を切り取るものと思っております。

どちらが良いとか悪いとかではなく、そういった特性、特徴があるものだと思っていただければいいと思います。

 

そういった特製のあるメディアなものですから、「のこす」ということに関しても一長一短あると理解していただきたいです。

写真があるからいい、映像があるからいい、というものでもなくて、

「こういう理由でのこす」というところに対してのアプローチとして選択できるように。

 

話がどんどんずれていっておりますね。すみません。

このお話はまた、テーマをしっかり絞ってお伝えしていきたいと思います。

見切り発車すぎました。

 

映像にのこすことはその時間をのこすこと。

写真の瞬間を連続した時間に構築することでストーリーが感じられてきませんか?

前回の映像をもう一度見ていただけると、見え方が変わりませんか?

幼い頃から壮年期を経て行くことでその人の人生、生き様を感じませんか?

4分位の映像に何十年の人生がぎゅっと凝縮されていることが感じられましたか?

そこに確かな人生を感じましたか?

それが「証」です。

 

・・・熱くなりすぎましたね。

 

しかしながら、そうやって人を理解し、これからを生きて行くことは

これからもっと大切になるのではないでしょうか。

おじいちゃん、おばあちゃんのこと。

お父さんお母さんのこと。

みなさんが赤ちゃんから今に至っていること。

映像はそれをありありと理解させてくれます。

 

うまくまとめることは叶いませんでしたが、

そうした想いを持って映像商品「証」を制作させていただきます。

ご興味ある方はご連絡ください。

ありがとうございました。

福本

 

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映像商品「証」について ー 映像をのこすということ・前編 ー

映像商品「証」は

あなたにとって何の映像に見えますか?

 

単なる写真のスライドショーでしょうか?

確かにそうですね。

 

本日お伝えしたいことは、映像として「のこす」ということとは、どういうことなのか?

ということを、自分なりにお伝えしていきたいと思います。

一度では全てお伝えできないと思いますので、何度かに分けていければとも思っています。

 

まず、あなたは(私も)写真をお持ちですよね。自分の写った。

それを撮影した方と、あなたのご関係は?

あなたが小さな頃の写真はたいていは親御様が撮影しているのではないでしょうか?

そこからはじまって、学校の先生や、友人、先輩、職場の方、親戚など、たくさんの人があなたの写真を撮影し、

あなたとの写真を撮影しました。

撮影することは、当たり前ですが撮る人と撮られる人がいるということです。

 

映像、動画はーーー写真、静止画が連続したもの。連続、つまり時間を扱えるものですよね。

それだけに歴史は写真より浅く、撮影する機器も写真ほど手軽なものではありませんでした。

 

現在はスマートフォンで写真も動画も簡単に撮影できるようになっていますね。

まだまだSNSなどでは写真での共有や保存が主流かもしれませんが、動画も増えてきております。

みなさんは商品・サービスの広告などでは動画を目にすることが増えてきているのは感じておりますか?

Youtubeも個人で映像を発信できるサイトですが、たくさんの方が参画されていますよね。

 

なぜ、映像が増えてきているのか?

「映像は写真よりも伝えられる情報量が多いから」

もちろん他にも理由はありますよ。

 

なぜ、写真でのこしているものを映像にするのか?

その答えの一つが

「映像は写真よりも伝えられる情報量が多いから」です。

 

 

続く。

(ここまで書くのに1時間もかかったため)

 

250

感情を感じる

感情は、感じるもの。

感情はどこから生まれてくるのか。

 

感情は自身から生まれ、自身が感じるもの、だとしたら。

主体的に感じたい、感じるべき感情を選択することができるはず、なのに。

いわゆる嫌な感情、負の気持ちになるのはそれを自らが選択しているからだと。

そういうことなのですか。そういうことなのでしょう。

頭ではわかっているつもり、なのですけども、ついついやってしまう。

 

そういった時は手を合わせるのが良いですよ。

手を合わせる。

 

なむ

 

249

 

from 矮小

自分の理解を超えたものに対してどうしますか。

 

世の中、理解を超えたものばかりですね。

理解できないことをまず理解しないと、と思うのですが。

なかなか困難でして、すぐに自分の範疇に押し込もうとするか(レッテルはり)、遠くに放り出してしまいがち(なかったこと)です。

じっくりと観察し、あるがままに感じ、受け入れるようになりたいものです。

 

そもそも、理解できないものを理解しなくてはいけないのか?

そうしたことも考えますが。

理解できないものに触れた時に、心地よく感じたならば

理解した方がいいのではないかと思います。

そう思うだけなのですけども。

 

 

自分の予想通りいったものに対してどうしますか。

自分の予想通りにいかなかったものに対してどうしますか。

喜んだり、悲しんだり、楽しんだり、怒ったりしますか。

そういった自分、他人、人をみた時にどう思いますか?何か感じますか?

 

結果と感情と行動とを繰り返すことは、どうですか?

「禅」

「問答」

 

よくわからなくなってきましたが、

自分、自己を客観視することが大切なのだと感じております。

しかしながら感情が湧き上がると自己を中心に引き寄せる力が発生し、それを阻む。

主体的に客観視をする、したい、そうありたい。

そう思う次第でございます。

 

自分が何を書いているか理解できなくなりましたのでこの辺りで。

ありがとうございました。

 

248

 

手応え

手応え・・・

1.打ったり突いたりした時、手(もと)に受ける感じ。
「確かな―があった」
2.物・事・人に働きかけた結果として感ずる反応・張り合い。
「―のある仕事」

てごたえを感じていますか。

 

歩いていると目の前の景色が移り変わります。

遠くまで歩くと、「結構遠くにきたな〜」と思いますよね。

そこそこ歩いて運動の手応えを感じて、

ふとあたりを見渡すとまったく見たことのない景色が待っていること、ありますよね。

 

自分の中で、そこそこ理解した。6、7割は理解した。

そう思って周りをみた時に、その理解した量の何倍もの世界が広がっている、

え、そんなに広大なの?って感じること。

自分の理解したことが、その世界の入り口にたどり着いたくらいなの?って感じること。

 

日本が自分の中の世界の全てだったのが、その何倍もの世界が広がっていることに気づくこと。

 

伝わっていますか。

井の中の蛙・・・に近いのでしょうか。

自分は今、井戸から出てインターネットの世界へ歩いていますけども、

とてつもなく広大なこの世界に、本当に感嘆しております。

心から実感しております。

わかっているようでわかっていませんでした。

今まで感じていた手応えは、本当に広い世界へのドアをノックしているくらいであったと、

ドアを開けてみて感じております。

 

何がいいたいのかさっぱりの内容ですが、

お伝えしたいのは、自分の世界(常識)は全てではない、

自分の世界は全体の一部であるということ。

 

感じる、ということは本当に大切です。

実感、実際に感じる。

固執しない。

ようやく理解できました。

 

247

 

 

 

ホームページも少しずつに感じられると思いますが、

もっとわかりやすいものに変更していきます。

おつきあいくださいね。

until

そもそも、って時がありますね。

何かに集中してて、そういえば、とかなってると、そもそもって。

 

集中すればするほど視野は狭くなりますね。

ただ、そこに対するチカラ、密度は強い、といいますか。表現悪いですけども。

 

集中といえば、「大規模・集中」って言葉、よく聞きました。ザ・トーキョーみたいな。

今は「小規模・分散」って言葉が出て来ているのですね。

「地産地消」だったりもそこに含まれるのだと思います。

小さな経済の輪を大切にする考えなのですかね。

 

現在はインターネットの世界がありますから、現実の地産地消やその土地の経済がインターネットを経由して

経済規模や文化、資質の似た別の現実世界に多層的に重なっていくのではないでしょうか。

文章下手すぎて伝わりませんね、これじゃ。

小規模な感性の経済が、インターネットを通じて今まで現実的ではなかった距離にある、相似形の経済と自然に結びついていく。

本当に文章下手だな。

 

まぁ、ホームページを修正したり、改良したり、改悪したりと日々格闘していますが、

改めてインターネットの、電子の世界のチカラ、特性みたいなものを感じておる次第です。

 

アマゾンみたいな巨大なサービスもありますが、

もっとピンポイントな、ニッチな、現実だったらその町に住んでいても気づかないようなお店が、

インターネットだと見つかる。そして経済活動をしている。それが個人レベルにおいてもそうあったりする。

非常に面白いものであると思いますね。

 

とりとめのない話でした。

 

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文字の力

前回から続きまして、文字について。

 

本を読むことは、その筆者との対話ですよね。

その対話は文字を通じて行われますけども、

その文字の先にいる筆者はいつの筆者なのか。

本、そして文字の先に時間と空間を超えた筆者がいて、対話をする。

時間と空間を超える、タイムマシーンですね。一方通行の。(ここでは、そういうことにしてください。)

 

つまりですよ、今文字で残しておけば未来で誰かと対話するかもしれないわけです。

誰も見ていないこのブログも、今の自分の想いを刻んでおくことで、将来誰かと対話し、

誰かの役に立つ可能性があるということですね。

 

現在は、本当にネット上のデジタルデータはほぼ全て残ると思っております。永久に。

ネットリテラシーが問われていますよね。いじめ、炎上とか色々。

 

「本」にしなくとも個人で発信できる、することが一般になる時代に、

どんな言葉を残してあげようか。

自分は困っている人の背中を押してあげることができるような、

必要以上に孤独を感じている人の心に寄り添えるような言葉を残してあげたいですね。

 

わかったこと

昔は「本(思想)」を作ることができる一部の人と皆が対話をしていた(一部と全体)

↓↓↓

今は個人個人がネットワーク上で「本(エッセイ)」を発行し、個人個人で対話をしている(個人と個人)

 

※ここでいう一部はいわゆる社会的に権力がある人(文化人、有名人とか)

※ここでいう個人はそういった一部の人たちを含めた人たち(一般人とか有名人とか関係ないフラットな個人)

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ちょっと遠くに来すぎましたのでそろそろ終わりますけども。

「文字」は見るのも書くのもいいものです。

タイトルの文字の力には届きませんでした。すみません。

 

未来に残すという意味では弊社の「証」と「祝」もこの時代だからこそのものです。

文字以上に映像の力を感じて欲しいです。

ありがとうございました。

 

246

 

 

言葉、そして文字

気になる本がありましたので本屋さんに行きました。

探しましたが結局ありませんでした。

その時、あたりを見渡してふと思いました。

「こんなにたくさんの本、一生かかっても読めないな」

当たり前のことを当たり前に思ってしまいました。

 

それと同時に、時間というものは本当に限りがあるのだと感じました。

自覚した、という方が適切かもしれません。

 

そういった意味では実感に勝るものはそうそうありませんね。

よりたくさんの実感を得られれば、もう少しよくなるのではないかと。

何がよくなるのか、たぶん自分がよくなるのではないかと。

 

時間が有限であると自覚したところでどうするのか。

何を選択して行動するのか。

実感は遠くの真理を我がことにしてくれることなのですね。

選択と集中、という言葉も聞きますが、

本当の意味でそうありたいものです。

 

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お葬儀と映像

お葬儀と映像、ということですが、

最近はコロナウイルスの影響で皆様もご存知だと思いますが、

密を避けるために、会葬者の方も減っていたり、ご焼香のみの方もいらっしゃいます。

そういった状況で故人様の遺品をお飾りするメモリアルコーナーで故人に思いを馳せ、

会話をされている方も多く目にするようになりました。

 

私たちはいわゆる追悼映像も手がけさせていただいております。

以前は式の前後に、式場内で上映させていただき皆様にご覧いただいておりましたが、

現在はメモリアルコーナーにTVモニターを設置し、上映させていただくこともあります。

(密を避けるために、式に参列されない方も増えておりますので)

式場内で上映するよりも、皆さま各々のタイミングで映像をご覧いただけますので、

じっくりと何度も見る方、会話をされながら見る方など、より故人様への想いが深まっているように感じました。

中には涙される方もいらっしゃいまして、映像が少しはお役に立てたかな、と感じた次第です。

 

人が集まること、その時間に限りがある今の葬儀において、

より一層、映像のお手伝いが必要なのではないかと私は考えております。

全ての想いに答えられるわけではございませんが、

もし、あなたが映像、それに付随することで何かありましたら遠慮なくご相談ください。

 

福本

Deep

人の間で生きていく。

人の間を生きていく。

 

何かのあいだで、はざまで生きていくのですかね。

そういうことをかんがみても、人はひとりではだめなのでしょうね。

 

誰かのお役に立って、誰かに助けていただいて生きていく。

おおよそ、仕事は誰かのためにあるのだと思えますね。

仕事の先には誰かがいますね。誰もいない、ということはあるのでしょうか。

今は思いつきません。

 

もちまわり、もちつもたれつ、でしょうか。

 

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